今日が、今期、最後の例会となりました。皆様、本当にありがとうございました。後ほど、卓話の時間で、今期理事・役員を務められました方々の退任のご挨拶があります。私もそこで、ご挨拶申し上げます。今日も何時も通り、会長の時間を務めさせて頂きます。
今期、最初の例会で、私の最も崇拝するシスター渡辺和子先生の「お母さんへの思い」を語られた一節を、皆様にご紹介したと記憶しております。最後も、この「母」の話で締め括らせて頂きます。
小学生から高校まで、明けても暮れてもテニス漬けで、「ペンを握る時に、ラケットを撮って過した息子」、とよく母から言われました。試合もよく見に来てくれ、負けて悔しがる私に、「負けるが勝ちだよ」と、愚痴るのを戒めるのが常でした。 母は、「相手に勝ちを譲った試合は、良い勉強になり、先さき、良い結果を生むときがあるよ」と言いながら、心底踏ん張り、勇気を絞って、自分と闘いましたかと問い、「何時も貴方を、お天道さまが見ておられるのだから――」と言うのが口癖でした。また母は私達に何時も、「出来る人」ではなく、「出来た人」と言われるような人物に成りなさいよと諭していました。こんな母の教えが、何と、私以上に母が渡辺和子先生の信仰を尊敬し、お教えを請うていた事に由来するのだと知らされたのは、母の晩年のことでありました。
何度もお聞きした、渡辺先生のご講演で、このことに触れられた一節をご紹介します。
(日本語で「出来る人」と、「出来た人」とでは、たった一字の違いですが、内容はかなり異なります。いっつもいっつも勝っていて負けを知らない人を、私たちは「出来る人」だと評価します。それに対して私たちが、「あの人は出来た人だ」と言うとき、それは人間的に円熟した人、包容力のある人、負けることの大切さを知り、時に応じて、進んで相手に勝ちを譲ることの出来る人をいうのです)、と結ばれています。
私も次代を担う若者を指導するとき、良く、この「る」と「た」の違いを引用させて頂きましたが、その背景には、負けて勝つことを知り、復活の栄光を示されたキリストの深いお教えがあることを真に知らされました。私はこの1年、会長を拝命し、ロータリー活動を通し、ささやかながらご奉仕に努めさせて頂きましたが、もう小さな会社の看板や、職業の枠など外して、真の社会人としてのご奉仕でのみ、評価が問われると思うようになりました。いよいよ、これからどう生きるか、どう過すかが、大きな課題となりそうです。
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